生老病死、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五蘊盛苦。

「四苦八苦」という仏教用語は、上記の苦しみを称しているそうな。ここらへんの苦しみを耐える解消する昇華させる、という自己鍛錬は、教育とか学校の責任じゃなくて、親の躾の領分だと思っている。条件反射と言ってもいいかもしれない。
 変な例えになるけど、デパートとかでお菓子をねだる子供が居るとして。親が出来る対応ってのは、その子にお菓子を買い与えるか、言葉で理解させてお菓子をねだらないように納得させるか、うるさいと言って殴って言う事を聞かせるか、くらいしか選択肢は無い。これで子供が理解力があり言葉で言い聞かせて納得するのならそれが理想なんだけど、子供がお菓子を欲しがるのは一次反抗期にある自我の発達に類する所有欲とか、更に原始的な食欲に基づくものだから、そんなの言葉で納得する筈が無い。…そうなると、殴って言う事を聞かせる事で「我が侭を言うと殴られて痛いから、我が侭を言うのは遠慮しよう」という条件反射を覚えさせて仕付けて、「『求不得』が苦しいのはこういうことか」と身体で覚えさせるのが、子供に対しては確実な教育なんじゃないかなぁ。

# 家庭内暴力児童虐待を肯定する気は毛頭無い! ないのだが、言葉で理解する年齢と言葉では理解できない年齢ってのは確かに存在する。自分もそうだしこの文読んでるあンたもそうだったろうし、五蘊盛苦に到っては現在進行形ってな青少年も居るだろうて。そんな子供に躾をするのは、保護者しか出来ない…と思いたい。(最近の親見てるとなぁ…親でもダメなのは居るって事で)

 子供、特に幼児なんて本能と感情で動いているのだから、全て我が侭を認めさせたら、いつまでたっても「四苦八苦」は理解できないし、下手すると一生分からないものになるかもしれない。だって、小学校低学年までは教育というより反復練習だったじゃない。掛け算の九九なんて、学習ってより実質的には条件反射みたいなもんでしょ?  それと同じで、人と折り合いつけて付き合うとか、殴られると痛いとか、自分の親類縁者が死んだら悲しいとかも、大人になってからの知識や教育じゃなくて、まだ人格が形成されきっていない時の経験や条件反射で理解し納得するものだと思う。
 今の子供達は、そういう経験を積む機会を大きく失っている気がする。何度か書いたが、自分の年代は「近所の子供たちが学年入り混じって一箇所で遊んだ」経験がある最後の世代のはず。自分が小学校高学年で任天堂ファミコンが発売された時期で、以降は数人の子供が部屋で遊ぶのが主流になった筈。そういう学年が関係無い集団で遊ぶというのは、上下関係やハンディキャップの考慮、年長者の役割と義務、集団で遊ぶ時の全体進行を守る義務などを、自然に勉強できた環境だったから、人が人として社会に溶け込む為には必要な教育環境だと思うんだがねぇ。人と付き合う経験も無く、人が死ぬ苦しみや分かれる悲しさも理解せず、そのまま未成熟な心のままで大人になったら、人はどうなるのかね? それとも、今が既にそういう時代なのかな?……


 宅間死刑囚の刑が執行されたニュースを見て、そんな事を考えた。